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ナンシー関のエッセイ【書評一覧】 > 何もそこまで
10年後、ヤワラちゃんは選挙に出ていると思う。
【書評・あらすじ】
とうとうやってしまった。というほどのことでもないが、ナンシー関のコラムを2冊はしごしてしまった。
旅先でちょっと読み物を買いたいときなど、困ったときのナンシー頼みをよくする。
今回は家から1冊ナンシーコラムを持って出かけ、さらに旅先で本を探すも特に読みたい本がない、といった具合になった。そんなときこそナンシー関の笑本!的抜群の安定感が発揮されるときなのだ。
しかし今回はいよいよ安定感ゆえの問題が浮上したの事実。というのも、ブッカァフ(僕は英語教員なのでBOOK OFFをこう読んでいるのだ。うそ)でナンシー関の在庫と対峙したとき、果たして自分がどのコラムを持っていて、どれが既読でどれが未読なのかさっぱりわからないという不測の事態に陥ってしまったのだ。
タイトルを取ってもこの「何~」シリーズが10冊以上あり、しかも内容はどこを切っても金太郎飴のように芸能界・テレビなのである。どの本がどれなのかもはや記憶だけでは判別不可能なのだ。
そんなわけで、わざわざケータイでこのブログをチェックし、記事がない本を探すということをすることになった。
しかし昨今はブッカァフで買った本をヤフオクで転売するということをしている人がいるらしく、ネットのオークションでの売値をケータイで逐一チェックしながら古本を探すのだとか。そしてそれを禁止するブッカァフもあるとかないとかいう話を聞いたばかりだったので、ただでさえブッカァフに長く滞在しがちな僕としては普段から僕は万引き犯ではありませんよ、カバンの中に入っている本も御社の某店舗で購入したものであり私の身は潔白でございますよといったことを考えながら本を探さなければならないのに、その上に転売する気もございませんよ、私は右頬を打たれたら左も差し出すタイプの万引き犯ですよっていうかうるせえよおめえなめんなよこの娼婦の息子の豚野郎!といった心理状況まで追い込まれることとなるのでその辺はまあ困ったものだなと思っています。
さて、わけのわからない前ふりをいつまでも書くわけにはいかないので残念ですが本の紹介を少し。
このコラムが連載されていたのは95~96年ごろ。時代としては映画『Shall We ダンス?』が放映され、「マジカルバナナ」が流行り、ドラマ『未成年』と『ピュア』が話題となり、山田邦子がどういうわけか女性高感度No1だった頃。
現在31歳の僕が中学生だったくらいか。
実はナンシー関は案外なあなあな感じで芸能人を斬ることが多い。誰でもバサバサいっちゃうイメージがあるけど、実は一刀両断するような切り方をすることはさほど多くないのだ。
むしろ烈火のごとくに槍玉に挙げられる芸能人のほうが少ないくらいなんだけど、その少数派に長年属し、長きに渡りナンシーに逆説的な意味で愛されたのが山田邦子とヤワラさんの2人だったりする。
「世間の勘違い」と「本人の勘違い」があいまって産み落とされた90年代の怪物、といった趣の2人ではある。
この本でもこの2人のネタは常連として出てくるのでこうご期待。読んでいて痛快。
ところで、ナンシー関はコラムの中でしばしば予言めいたことを言う。
このコラム集では池谷幸雄を指して「オリンピックほどツブシが利くもんはないだろう」なんてことを言っていた話題があったんだけど、その締めの一文で本当に唐突に、冒頭に引用した一言を言っている。
いっとくがこの記事が掲載されたのは95年10月である。 95年といえばアトランタオリンピックよりも前で、ヤワラちゃんがまだ「金を目標にがんばる柔道少女」だった頃の話だ。
そしてご存知の通り、2010年5月、ヤワラさんは民主党から出馬したのだけど、あの柔道(だけがとりえの)少女ヤワラちゃんの姿に選挙への出馬を見出していたというのはちょっと凄すぎないか。
おススメ記事:ナンシー関の名言集
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もはやナンシー関の本に一冊一冊書評を書くのはナンセンスな気がする。
本の間にある違いは「いつ」書かれたものか、ただその一点につきるといっても過言ではない。
なんならタイトルも似たようなものが多いし、内容も同じ風となると、もはや少しブランクをおいてしまうと、果たして自分がどの本を読んでどれを読んでいないのか、その判別がほとんどつかなくなるほどだ。
ところで先ほど何気なく「過言ではない」といったが、この言葉はこのごろの傾向として「いいかもしれない」とほぼ同義に使われているきらいがある。しかし僕がここで使った「過言ではない」は字義通りの意味で受け取っていただきたい。ナンシー関の書籍を隔てるのは執筆された「時」だけなのだ。
さて、そんな事情で先に連載された時期を書いておくと、この本に納められたコラムは95年から97年にかけて書かれたものだ。
ナンシー関といえば主にテレビ、そしてそれに登場する芸能人たちをさくさくと切り刻んでゆくのが常でそれがとことん面白いのだけど、いかんせん芸能ネタになるので、あまりにも古い時代になりすぎるとさっぱり話についていけずただただ困惑することとなる。
95~97年。これは今年31歳、当時高校生だった僕としてはボチボチのヒットだ。だいたいのことは忘れているけど、たまに「あーあったね」と思えるレベル。
基本的にナンシー関は眼光が鋭い。皆が日ごろ微妙に感じている違和感の本質を見抜いて、皆にわかるように切り出してくれる。そのためどの本を読んでも関心するような名言と出会うことが多い。
本書ではその名言っぷりがコラムの小タイトルにまで及んでいた。
「妻子のためにがんばる」。しかし落合の「妻子」とは「信子&福嗣」なのだ……
最初に掲載されたコラムのタイトルなのだけど、世の不条理をこれほど簡潔に言い切れる言葉があるだろうか。その他、本書で見つけた名言をいくつか。
黒柳徹子について
――黒柳の喜怒哀楽は口元だけで表現されている
アイドルについて
――存在することが最大の意味であるのがアイドルであり、それが成立しなくなったからバラドル他の『何かをしなければ成立しないアイドル』がうようよと出現したわけである。
オリンピック等における「感動」について
――選手の実家にカメラ行きすぎ。恩師出てきすぎ。子供の頃の作文捜してきすぎ。
等々。あとは名言集をごらんいただきたい。――黒柳の喜怒哀楽は口元だけで表現されている
アイドルについて
――存在することが最大の意味であるのがアイドルであり、それが成立しなくなったからバラドル他の『何かをしなければ成立しないアイドル』がうようよと出現したわけである。
オリンピック等における「感動」について
――選手の実家にカメラ行きすぎ。恩師出てきすぎ。子供の頃の作文捜してきすぎ。
本書の構成としては第1章と第3章がいつもの感じ。つまり芸能人&テレビぶった斬り。そして第2章が似たようなところで、CMについて。
そして中でも一番好きだったのは、風俗バイト誌、マダム向け誌、OL向けお金情報誌、等々さまざまな「雑誌」がターゲットになる第4章。時事ネタに左右されていないという点でも記憶やノスタルジーに惑わされず普通に楽しめる。
ところで僕は「世代」を気にしすぎてよく笑われることがある。
たとえば「松坂世代」というのがそれで、松坂世代には優香、酒井若菜、根本はるみ、小池栄子などがいる。
実は僕はこの松坂世代の1つしたで、僕の世代をしいて名づけるなら、「祐美ちゃん世代」(安達祐美)、または「切れる17歳世代」ということになる。
そして下に目を向けると、加藤愛、熊田曜子などなど、と、なんだかやけにたとえのイエローキャブ密度が高くなってしまったけど、とにかくこのように象徴する同い年の芸能人や有名人を「○○世代」として挙げてもらえると、その人と僕との年齢の関係が相対的に理解できやすいのだ。
その際不思議なのは、重要なのは「学年」であって、生まれ年ではないということ。つまり、僕は早生まれ(2月)なので1つ下の学年と同じ年生まれなわけだけど、すべての区分けは「どの学年か」でなされているのだ。
30を越した今でも、である。
なんでこんな話を長々書いたかというと、実は本書でナンシー関が僕とおんなじことを書いていてびっくりしたからなのだ。この話は「『学年概念』。この有名人が同じクラスだったら……」に書かれているのでぜひ読んでいただきたい。
以上、やはりナンシー関の本はどれも同じだな、といった論調できたけど、結局のところそれは笑本!的安定感を意味するもので、「はやり面白かったな」と同じ意味だと判断してもらえるとうれしい。
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