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書評ブログの【笑える本を読もう!】

書評ブログの【笑える本を読もう!】


作品名: 続・世迷いごと
作家名: マツコ・デラックス
ジャンル: エッセイ

笑:☆☆☆☆☆★★★★★
楽:☆☆☆☆★★★★★★
ス:☆☆☆☆☆☆★★★★
危:☆☆☆☆☆★★★★★
マツコ・デラックスその他のエッセイ 
【名言・みどころ】
木村拓哉は20代から「キムタク」を自己演出しているから、もう「キムタク」をしている時間のほうが長くなっている。もう自分の人格になるくらい、自然に「キムタク」がやれちゃっている。「キムタク」を背負っているわけ。

【書評・あらすじ】
 以前このブログでも紹介したマツコ・デラックスの『世迷いごと』の続編。
 マツコ・デラックスはその芸風と風貌からどうもナンシー関と比較されることがあるらしい。とはいえそんなことしているのは実際ここくらいのものかもしれないので、一般論で言ってしまうのはどうかとも思うけど。
 とにかく、テレビへの出演時よろしく、マツコは著書の中でも芸能界・芸能人を分析して「斬る」という作業を行う。これはナンシー関がコラムの中で行った作業と確かに似ている。
 この著書の中でも、田中みな実、小泉孝太郎、加護亜衣、シャブP、沢尻エリカ、澤穂希、ダルビッシュと紗栄子など、いかにもナンシー関が生きていたら言及していたであろう有名人・芸能人たちについてブツクサと言っている。
 しかし前の記事で僕は両者の違いを「マツコの論調にはナンシーのような刺さるような毒がない」とした上で、その原因はマツコの「芸能人への「近さ」から生まれてきている」と分析した。この『続・世迷いごと』を読んで、僕は同じことを確信した。
 つまりマツコは自身が「芸能人」であるがゆえに、ナンシー関ほどの悪意あるまなざしをその人たちに向けられないのだな、と。

 さて、そのことを確認するために、前回は両者に言及があったYAWARA!ことタワラちゃんについて引用を行ったけど、今回の作品にもやはりナンシー関が好んで言及した人物についての評があったので、それを引用する。
 その人物についてナンシー関はこのような名言を残している。
中山秀征は「中山秀征系タレント」の中において抜群の「中山秀征的才能」の持ち主である。
 これほど芸能界における中山秀征のポジションを的確に表現する言葉はないだろう。この切れ味、この悪意。僕はひそかにこの言葉をナンシー関最大の名言として認識している。
 一方マツコは同じ中山秀征についてこのように述べている。
ヒデちゃんって、すごくおもしろそうにしゃべって、何かコッチもおもしろそうに聴いているんだけど、よくよく話を聴いたら、おもしろそうなことは一言もいっていないことに気がつくの。それがトークの技術。
 一見すると失礼なことを言っていそうでありながら、結局マツコの人物評の多くは「ホメ」て終わるのである。この原因を僕は、マツコが芸能界の「中の人」だからだと考えている。
 マツコが面白コラムの著者になるために欠けているのは、まさにここである。
 吸収せよ!ナンシー関の毒を!悪意を!
 そしてマツコよ、「第二のナンシー関」たれ!!
 え?んなこと望んでないって?
 あ、っそ。
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作品名: 世迷いごと
作家名: マツコ・デラックス
ジャンル: エッセイ

笑:☆☆☆☆☆★★★★★
楽:☆☆☆☆★★★★★★
ス:☆☆☆☆☆★★★★★
危:☆☆☆☆☆★★★★★
マツコ・デラックスその他のエッセイ 
【名言・みどころ】
子供たちは「悪の心」を本質的に持っていて、それをみんなで馬鹿笑いすることで解消していた。テレビとかメディアというのは、そういう「異形なこと」、そして「異形な者」を観せるものなのよ。善人面している人ばかり出ちゃうというのは、本当の姿じゃないの。

【書評・あらすじ】
 
グーグルで「ナンシー関」と打つと、予測ワードで「ナンシー関 マツコ・デラックス」と出てくるので以前から不思議に思っていた。
  確かにテレビで見るマツコが毒舌で芸能人を斬っている様は、ナンシー関のコラムを思わせるものがあるけど、予測ワードになるほど似てるのかなと不思議に感じていたのだ。
しかしこのエッセイ集『世迷いごと』の目次を見てなるほど、と納得した。というのも、そこに並んでいるのは「広末涼子」「福原愛」「藤原紀香」「今井メロ」「滝川クリスティル」etc...。ナンシー関が生きていたら今ごろ斬っていたに違いないような名前がずらりなのだ。
  なるほど、マツコが読み物でテレビと同じようなことをしていたら、さぞナンシー関に似ていることだろう。どうりで検索予測で名前が出てくるわけなのだ。
  そんなわけで、「第二のナンシー関」出現の予感と興奮をひしひしと感じながら僕はこの『世迷いごと』を手に取った。

  しかし結論からいえば、ナンシー関とマツコ・デラックスの間には雲泥の差があったといえる。そしてその違いは、それぞれが書いた同一の<ある人物>の項を比較することで歴然となるだろう。
  まずはその人物に関するナンシー関の描写。
ヤワラちゃんが、どんな自己認識でどれだけ胸元の開いた服を着ようが、本当はとやかく言う筋合いではない。(中略)みんなのヤワラちゃんはじゅうどうぎがいちばんにあうよ。頼むよ。しまっとけ。(夜間通用口

ヤワラさんかあ。一部では、「ヤワラさんセクシー」説も浮上してきてるし。日米野球の始球式のときのドレスはまさにセクシー。うひょー。意外に巨乳ということを国民に啓蒙したね。いったい何のつもりだ。あ、失敬。ついつい激高してしまいました。(中略)セクシーになっていくヤワラさんがまぶしくて見てらんねえや、見てられっかよ、っつうかね。(耳のこり
 1単語目から正体がばれてしまったが、そうTAWARA!こと田村亮子である。
 それにしてもこの切れ味を見てほしい。悪意を純粋培養したような悪意。よく見ると悪口は一言も言っていないのに、そんな文章からにじみ出てくる私は田村を許さないよ、という鋭い悪意。
  この痛烈な悪意=毒こそナンシー関の真骨頂であって、面白さなのだ。
  しかし一方で、マツコがTAWARA!を描くとこうなる。
男はオカズにできる対象のオンナには優しいからね。でも、YAWARAちゃんに対しては、「どのツラ下げてやってんだ」になっちゃう。男たちには、そういう部分しかツツくところがないの。

YAWARAちゃんは人がうらやむものを全部手に入れちゃうのね。あんなに凄い星の下に生まれたオンナっていない。
 このように、TAWARA!さんの容姿に関して時にナンシーよりも失礼なことをいってながら、マツコの論調にはナンシーのような刺さるような毒がないのだ。そしてTAWARA!さんについてのみならず、マツコの語り口はすべての芸能人に対して優しい。
 これがナンシー関とマツコの間にある決定的な「笑い」の質の違いなのだ。

  そしてこの2人の違いは、前者が消しゴムスタンプ職人という芸能界を俯瞰できるという無責任な位置にいた人物であるのに対し、後者がどっぷりと芸能界の中にいるという点から生まれたものだと思う。というのも、さすがのマツコといえども、きっと一度会った人、これから会うかもしれない人のことをぼろくそに言うことは簡単じゃないだろう。あまり好きじゃなかった人と一言話しをしただけで、それが大していいヤツじゃなくても、なんだいいやつじゃん、と感じた経験はみな誰にでもあるはずだ。つまりナンシー関に対するマツコの物足りなさは、マツコのそんな芸能人への「近さ」から生まれてきているように思えるのだ。
 なんにせよ、ナンシーなき今、彼女の遺志を継ぐものとして(知らないけど)マツコ・デラックスの存在は一筋の希望の光になるはずだ。
  次回作に期待したい。
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