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マツコ・デラックスのエッセイ【書評一覧】 > 世迷いごと
作品名: 世迷いごと 作家名: マツコ・デラックス ジャンル: エッセイ 笑:☆☆☆☆☆★★★★★ 楽:☆☆☆☆★★★★★★ ス:☆☆☆☆☆★★★★★ 危:☆☆☆☆☆★★★★★ マツコ・デラックスその他のエッセイ |
子供たちは「悪の心」を本質的に持っていて、それをみんなで馬鹿笑いすることで解消していた。テレビとかメディアというのは、そういう「異形なこと」、そして「異形な者」を観せるものなのよ。善人面している人ばかり出ちゃうというのは、本当の姿じゃないの。
【書評・あらすじ】
グーグルで「ナンシー関」と打つと、予測ワードで「ナンシー関 マツコ・デラックス」と出てくるので以前から不思議に思っていた。
確かにテレビで見るマツコが毒舌で芸能人を斬っている様は、ナンシー関のコラムを思わせるものがあるけど、予測ワードになるほど似てるのかなと不思議に感じていたのだ。
しかしこのエッセイ集『世迷いごと』の目次を見てなるほど、と納得した。というのも、そこに並んでいるのは「広末涼子」「福原愛」「藤原紀香」「今井メロ」「滝川クリスティル」etc...。ナンシー関が生きていたら今ごろ斬っていたに違いないような名前がずらりなのだ。
なるほど、マツコが読み物でテレビと同じようなことをしていたら、さぞナンシー関に似ていることだろう。どうりで検索予測で名前が出てくるわけなのだ。
そんなわけで、「第二のナンシー関」出現の予感と興奮をひしひしと感じながら僕はこの『世迷いごと』を手に取った。
しかし結論からいえば、ナンシー関とマツコ・デラックスの間には雲泥の差があったといえる。そしてその違いは、それぞれが書いた同一の<ある人物>の項を比較することで歴然となるだろう。
まずはその人物に関するナンシー関の描写。
ヤワラちゃんが、どんな自己認識でどれだけ胸元の開いた服を着ようが、本当はとやかく言う筋合いではない。(中略)みんなのヤワラちゃんはじゅうどうぎがいちばんにあうよ。頼むよ。しまっとけ。(夜間通用口)1単語目から正体がばれてしまったが、そうTAWARA!こと田村亮子である。
ヤワラさんかあ。一部では、「ヤワラさんセクシー」説も浮上してきてるし。日米野球の始球式のときのドレスはまさにセクシー。うひょー。意外に巨乳ということを国民に啓蒙したね。いったい何のつもりだ。あ、失敬。ついつい激高してしまいました。(中略)セクシーになっていくヤワラさんがまぶしくて見てらんねえや、見てられっかよ、っつうかね。(耳のこり)
それにしてもこの切れ味を見てほしい。悪意を純粋培養したような悪意。よく見ると悪口は一言も言っていないのに、そんな文章からにじみ出てくる私は田村を許さないよ、という鋭い悪意。
この痛烈な悪意=毒こそナンシー関の真骨頂であって、面白さなのだ。
しかし一方で、マツコがTAWARA!を描くとこうなる。
男はオカズにできる対象のオンナには優しいからね。でも、YAWARAちゃんに対しては、「どのツラ下げてやってんだ」になっちゃう。男たちには、そういう部分しかツツくところがないの。このように、TAWARA!さんの容姿に関して時にナンシーよりも失礼なことをいってながら、マツコの論調にはナンシーのような刺さるような毒がないのだ。そしてTAWARA!さんについてのみならず、マツコの語り口はすべての芸能人に対して優しい。
YAWARAちゃんは人がうらやむものを全部手に入れちゃうのね。あんなに凄い星の下に生まれたオンナっていない。
これがナンシー関とマツコの間にある決定的な「笑い」の質の違いなのだ。
そしてこの2人の違いは、前者が消しゴムスタンプ職人という芸能界を俯瞰できるという無責任な位置にいた人物であるのに対し、後者がどっぷりと芸能界の中にいるという点から生まれたものだと思う。というのも、さすがのマツコといえども、きっと一度会った人、これから会うかもしれない人のことをぼろくそに言うことは簡単じゃないだろう。あまり好きじゃなかった人と一言話しをしただけで、それが大していいヤツじゃなくても、なんだいいやつじゃん、と感じた経験はみな誰にでもあるはずだ。つまりナンシー関に対するマツコの物足りなさは、マツコのそんな芸能人への「近さ」から生まれてきているように思えるのだ。
なんにせよ、ナンシーなき今、彼女の遺志を継ぐものとして(知らないけど)マツコ・デラックスの存在は一筋の希望の光になるはずだ。
次回作に期待したい。
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野田秀樹のその他の本【書評一覧】 > 怪盗乱魔
沖田 六法全書は、その前ではにかむものです。
ダンカン はにかむ?
沖田 わたしがこれからしようと思っていることが全部禁じられているからです。
【書評・あらすじ】
「夢の遊民社」主宰、脚本家にして俳優、野田秀樹。
これまで彼のエッセイを紹介したことはあったが、野田秀樹を本業の演劇人として紹介するのは初めてのことだ。
「夢の遊民社」とは80年代に日本の演劇界に衝撃を与えまくった劇団で、意外なところでは爆笑問題の太田などに影響を与えた劇団だったりする。
とはいえ僕は演劇は門外漢なので、聞きかじったり読みかじったりした情報しか知らない。そんなわけで僕が読みかじった元の情報を引用するほうが、なまじっか僕が知っていることを述べるよりも、より「夢の遊民社」がいかなるグループだったかをうまく紹介することになるだろう。
以下は当ブログでも紹介した爆問太田の自伝『カラス』に述べられた一節である。
俺は、『夢の遊民社』って好きなんだけど、ヤツら(大学の同級生の劇団)はその完全なるコピーだったから。当時の流行りだったんだけど、ラストシーンにスモークをガンガンたいて、出演者の後ろからライトを浴びせて、その逆行の中で”これが、僕らの少年時代だ!”なんて言って終わるという。つまり、流行にのっかっただけの予定調和だったんです。これは80年代に流行った小劇場での演劇を揶揄した一節なんだけど、これを見ると、当時の「夢の遊民社」の影響力と、そしてその劇団がだいたいどんな感じの演劇を見せていたかがわかってもらえるだろう。
つまり、「スモークをガンガンたいて、出演者の後ろからライトを浴びせて、その逆行の中で”これが、僕らの少年時代だ!”」なんていう感じの、つまり、いわゆる「前衛的ですね」の一言意外いいようのない感じの演劇をやり始めたのが野田秀樹率いる「夢の遊民社」で、当時の小劇団がこぞってその演出をパクリまくるほどに影響力を持っていたのである。
今回紹介する『怪盗乱魔』もまた、そのご他聞にもれない作品であるといえるだろう。つまり「前衛的ですね」といってしまえばなんとなくわかったような顔ができるタイプの作品、という意味だ。
その証拠に、文庫の背表紙に書かれたブックデータでさえこんな調子なのだ。
「吉田松陰、イサドラ・ダンカン、新宿の母、アガサ・クリスティなどが入り乱れるリリックな爆笑世界。」
この説明を読んだこちらとしては、本の中身がどんな内容なのかさえ皆目見当もつかない上に、「リリックな爆笑世界」がなんなのかもさっぱりわからないのだ。
いったいなんなんだ「リリックな爆笑世界」。
しかし言ったほうは、こういっていればなんとなく「わかった顔」ができるという、そういった魔法を感じる解説だ。
しかしプロとして、そして本の紹介をするものとしては、こんないい加減なことを書いてはダメである。
そんなわけで、今回僕はこの書評で、この『怪盗乱魔』をできるだけ具体的で「前衛的」とか「リリック」などという言葉ではごまかさずに紹介しようと思う。
とはいえ、リアリズムを逸脱し、ストーリーも一貫性のある作品ではないため、この記事を読んでも「さっぱりわからない」と感じる人もいるかもしれない。
しかし僕は極めて作品に忠実にこの作品をまっとうに評するし、もしわからないのであれば、それはあなたが馬鹿なのか、それともこの本自体が「さっぱりわからない」かのどちらかである。少なくとも僕はわるくない。
さて、あらすじからいこう…。
※後記:
以下端的なあらすじと極めて論理的かつ文学研究に影響を及ぼしかねないほど斬新な評論が記載されておりましたが、紙面の都合により勝手ながら割愛させていただきます。あくまでも紙面の都合であり、管理人が書けなかっただとか力不足だったなどというわけではありません。まさかそんなはずはありません。
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